A most inventive year:1851

1851年に新たな一歩を踏み出したのは、バリーだけではありません。実は、世界中で歴史を変える様々な発明や技術革新が生まれた年でもあるのです。ロブ・ライアンがその詳細に迫ります。

最近刊行されたAgainst Everythingという示唆に富んだエッセイ集の中で、マーク・グリーフは、人類は色々な意味で、主な目標をすでに達成してしまったと論じています。彼は「もう何千年もの間、人類は生きていく上で何が必要かを悟っていた。食料、衣服、住居。人類はそれを作り、あるいは苦労の末に手に入れてきた」とした上で、少なくとも先進国においては、遥か昔にこうした目標は達成されており、その他のことは全て、単なるまやかしに過ぎないと主張しています。

しかし、人類がいつその時点に達したのかについては言及していません。一体、このいわば近代の黄金期は、いつ始まったのでしょうか?機械化や量産技術が発達した産業革命を思い浮かべる向きもあるかもしれませんが、産業革命は同時に、社会の混乱、都市の過密化、貧困、病気を生む原因ともなりました。産業化の完成(通説では1840年代)を待ってようやく、その恩恵は徐々に社会の隅々にまで浸透し始めます。食料、住居、衣服が普遍的に行き渡るようになったのは、実に19世紀も後半に入ってからだったのです。

A most inventive year:1851

19世紀が後半に差し掛かる1851年は、歴史の上で重要な年となりました。これまでの産業化の成果を披露する催しが、ロンドンのハイドパークで開催されたのです。「全世界の産業大博覧会(Great Exhibition of the Works of Industry of all Nations)」と銘打たれた世界初の万国博覧会は、美しくきらめく水晶宮で開催されました。この建物自体が、鋳込み成形法による、安価で欠陥のない丈夫なガラス板の製造技術をくまなく披露するものでした。ガラス製造技術の発達に伴い、一般家庭にも、これまでになく自然光が差し込むようになります。1851年コーニング・グラス・ワークスの創業とともに、その潮流は瞬く間に大西洋を超えて広まりました。

1851年5月1日、ヴィクトリア女王の開会宣言により万国博覧会が開幕します。出品者は15,000名にのぼり、16km以上にわたって10万点の展示品が並びました。10月の閉幕を迎える頃には、 600万人を超える入場者が訪れたといいます。

出品者のひとりであったアメリカ人の錠前職人、アルフレッド・チャールズ・ホッブズは、当時人気だったチャブ錠などの錠前を破ってその欠陥を暴き、聴衆を驚かせました。しかし、祖国アメリカでは、更に上手をいくライバルがいました。1851年、ライナス・エール・ジュニアは、金庫やセーフティボックス向けの錠前を発明し、「絶対に破ることのできないエールの摩訶不思議な銀行錠(Yale Magic Infallible Bank Lock)」と名付けます。この「ピンタンブラー」式デザインは、 後に、一般住宅の玄関に普及したエール錠の原型となりました。こうして、人類が苦労の末に手に入れた住居は、これまでになく安全になったのです。

同じセキュリティ関連でも少し物騒になりますが、万国博覧会にはサミュエル・コルトも参加し、銃の量産技術を紹介すると共に、革新的なコルトM1851 ネイビーリボルバーの宣伝を行いました。このネイビーリボルバーは、ワイルド・ビル・ヒコック、'ドク'・ホリデイ(偶然にも1851年生まれ)などのガンマンをはじめ、探検家のリチャード・フランシス・バートン、無法者のネッド・ケリー、そして軍人のロバート・E・リーなども使用しています。

1851年は、食料の保存や消費のあり方を大きく揺るがす最初の兆しが現れた年でもありました。カリブ海に浮かぶ美しいネイビス島で、スコットランド人の両親の元に生まれたジョン・ゴリーは、米国フロリダ州で医師の資格をとり、熱帯性疾病の研究に注力します。彼は病室を氷で冷やす実験を行っていたものの、地理的に氷の入手が困難だったことから、次第に人工の氷を作る研究に取り組むようになりました。1851年5月6日、ゴリーは製氷機で米国特許8080号を取得します。諸説はあるものの、ゴリーは実際に冷蔵庫を発明したわけではありません。しかし、冷却(および空調)技術の進歩に大きく貢献し、食料の保存方法、ひいては人類の健康の発展に大きな影響を与えたのです。

残りの「衣服」の方はどうだったのでしょう?1851年には、服飾の分野でも様々な革新が盛んに行われていました。小売業では、オハイオ州、コロンブスにF & R Lazarus & Company(略称:Lazarus)と呼ばれる百貨店が創業します。聞きなれない名前ですか?この百貨店は後に、メイシーズ(1851年創業)やブルーミングデールズ(1861年創業)を傘下に収め、消費市場を席巻しました。

製造分野では、8月12日にアイザック・メリット・シンガーが、皮革および縫製産業用に改良したミシンで特許8294号を取得。家庭用モデルもすぐに続き、型紙やホームソーイングの流行を招きました。

シンガーのイノベーションは、後にカール・フランツ・バリーの運命にも大きな影響を与えます。しかし、当時ヨーロッパにいたバリーは、まだそれを知る由もありませんでした。妻の靴を買うためにパリへ旅行したことをきっかけに、1851年、バリーはシェーネンヴェルトの実家の地下室で、自身の名を冠したシューズメーカーを設立します。その3年後には正式な工場が操業し、1868年には工程の機械化に踏み切ります。バリーは、ソールをアッパーに縫い付ける工程に、シンガー社の元社員、ライマン・リード・ブレイクが発明した米国製マッケイミシンを導入しました。この水力タービン式ミシンの導入により、旧来の手作業に比べて靴の製造にかかる時間が大幅に短縮され、1870年代には、バリーはヨーロッパを代表するシューズメーカーとして台頭したのです。

もちろん、バリーは今や世界的に有名なブランドですが、一方で、脚光を浴びることなく歴史に埋もれてしまった悲運の人たちもいます。そのひとりが、フランスの手品師、ジャン・ウジェーヌ・ロベール=ウーダンです。彼は、トーマス・エジソンがわずか4歳だった1851年に、独自の白熱電球を披露しています。しかし、奇術師の名声が災いし、ほとんどの人は、それを単なるトリックとして一蹴してしまったのです。このロベール=ウーダンの初期の発明も、1851年の歴史を飾る立派な発明だと言えるでしょう。エジソンやバリーのように、後世に名を残すことはできなかったとしても。

ロブ・ライアンは、The Times紙、The Sunday Times紙の記者兼ジャーナリストです。